私はおそれていた。
子どもが小学生に上がるにあたって勉強の世話をしないといけなくなることをおそれていた。子どもに問題は無い、私の問題だ。私の親は勉強に関しては最善を尽くしてきたし、私も最善を尽くしたと思っている。同じことができるのだろうか。
また、私の父母が愛し合っているを超えた共依存夫婦であることも悩みの中にあった。例えばこういうことである。ある日、母親が麻婆豆腐を出てきた、平皿で。そのぺしゃんこの食べ物を見た父は文句を言った「この皿はなんだ、食べにくいんよ!!」心底がっかりした表情で。
私の母は甲斐甲斐しく世話を焼く、世話を焼いた相手のことを誰よりも知っている。だから、相手が嫌がることも誰よりも知っている。わざとだ、平皿で麻婆豆腐を出したのはわざとだ。わざと怒らせるようなことをするぐらいならば、人の世話などせずに各自好きに過ごせばいいのだ。それができずに離れられない、それが共依存だ。
私は勉強の世話はほぼできる。できる子だとは思う。褒めたりフィードバックをしたり、だけど、下手したら共依存関係になる、それは嫌、とにかく嫌だ。なんで嫌がらせできるまで相手のことを知らなあかんねん。家族ってなんやねん……あ、関西弁でてもうた。ここまで考えて無理無理無理、と考えるのを止める。
ありがたいことに、小学生時代ほぼ宿題をやっていかなかった夫が真面目に宿題の相手をしてくれた。私は料理を作って3児に食べさせているだけでよく、何となく乗り切れた。
今年の母の日は、例年に増して爽やかに迎えられた。まず夫が居ないのである。自分のために靴下とエプロンと下着を買って、子どものために夏用のパジャマを買って休日用のスポーツサンダルを買い、娘に母へのプレゼントの日傘を選んでもらった。
母の日は真夏日なので5分でマザーズバッグに子ども服を詰め込み、寝袋とマットを車に乗せた。どこでも寝られるとどこでも生きられる。そのために子どもそれぞれに買い与えた寝袋とマットだ。うちの母はどこまでも命の限り世話を焼いてくる。特に布団にはうるさい母の世話にはならない作戦だ。それだけ、私は母をおそれている。
ちなみに私の散財は帰ってきた夫に「そのサンダルは保育園で履けないじゃん」とやや嫌な顔をされた。自分の知らない物増えてるのん嫌なの、わかるよ…わかるけど。イケてるスポーツサンダルでポーズをキメる8歳、駆けていく6歳、私が小さいときに欲しかったキラキラサンダルを履く3歳の姿が堪らんのだ、すまん。
「自立」「いい距離感」「共依存」について、改めて考えられたのも5月6日に見に行ったアリアスター監督作品「ボーはおそれている」のおかげだと思う。中年俳優ホアキン・フェニックスがセックスシーンまでもを演じきるトンチキな表現の奥に、大変洗練された表現意図があった。とても楽しかったと同時に自分の物語として理解して、とても癒された。2時間55分の長大作だが、親へのコンプレックスは気持ち悪いものよね、と素直になれたのが大きな収穫だ。
2016年に「黒い十人の女」で映画への依存を自覚して、それまで逃げ場だった美しい映像世界を一切楽しめなくなった。そこから始まったのは産後鬱だった。同じく映画作品で2024年に救われるとは思いもしなかった。ホアキン・フェニックスは紛れもなく映画や映画界に救われた人の1人であり、その真っ直ぐな仕事ぶりに私も救われた。前向きに自分自身の脚本を書いて自分自身の人生を生きようと思えた。
ありがとう、アリアスター監督!
ありがとう、愛してる、ホアキン・フェニックス!
母親業、頑張れそう。
お読み下さりありがとうございました。