BBA★Zoneは永遠に

39歳、自分の生きる100年を永遠のものとしたい。

うちの兄貴と10年戦争

おはようございます、ポスト田イット乃です。



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↑手帳の夢スペースは2ページだけで十分。

 

 

さて、Xで予告してました、私の兄妹喧嘩について書いていきます。あまり思い出したくないけれど、はあちゅうさんがおでんの汁水筒殴打事件を話題に出していたので、ついでに吐いておこうと思いました。

 

妹に絶縁されるまでに兄貴は何をしたのか?

期間は私が17歳から27歳くらいまで。兄貴は6つ上なので、23歳から33歳くらいなのでしょう。私が結婚するときにどうでもよくなり、私から村上春樹の演劇を誘うことで仲直りとしました、断られたので結局行かなかったのですが。

「この人、アレだなー」のきっかけは、13歳で大学入学後1年過ぎた兄の下宿を頼って東京に遊びに行ったときです。早稲田演劇を一緒に見ようという話になり、中野の劇場で待ち合わせをしました。1人で東京散策をしたのち、劇場近くの銭湯に入って時間通り劇場へ。しかし、演劇が始まっても兄は来ません。演劇は楽しかったけれども、さあ兄はどこに行ったのでしょう。

確かPHSに「近くにいるけれどちょっと待って」と入っていたので近くを散策します。こじんまりとした焼き鳥屋のカウンターに居ました。兄貴と呑んでいたおじさんが私の視線に気づき「こちらをお探しですか?」と聞いてくれたので、私はすっと入って焼鳥を頼むや、血相変えて「用を思い出した」逃げ出す兄貴。ちょちょちょ、演劇1人で見ながら待ってたんだぞ、おい。

PHSで兄貴から電話があるも、「お前はそこにいる人たちをバカにしたんだぞ!」など言われなお意味がわかりません。13歳、東京で一人ぼっち。だもんで、意味がわからず焼鳥を食べながら泣いていたら、兄貴と呑んでいたおじさんがアイスまんじゅうを買ってきてくれて、お会計はしたのかしないのかもわかりません。アイスまんじゅうを食べながら、道で寝ている浮浪者にビクつきながら1人で高田馬場の兄貴の下宿に帰りました。訳が分からず泣き止むことはできません。

兄貴の下宿でもなぜか叱られたのですが、印象に残っているのは「焼鳥屋で、"失恋してヤケ酒を呑みに来た"という嘘が盛り上がった、そこへ妹が入ってきて雰囲気を壊した。大学生は場末の呑み屋に居ないものだ。」と兄が言ったことです。私悪くないぞ?今思い返せば、もしかして、東京の呑み屋に入って高学歴をなびかせながら適当な嘘ついてタダ酒にありつく、そんなことを頻繁に兄はしていたのかもしれません。妹が遊びにきているのに?東京で19歳の兄貴は何をしていたのでしょう?

就職して激務につくまで、持論を展開し大阪のそれまでの人間関係にちょこちょこカドを立ていた兄貴。完全な絶縁宣告をしたのは父母に対して「うちの教育は間違っている」と言い出したことです。兄としては"楽しく学ぶ"を信条にしているうちの教育姿勢がぬるく見えたようです。同じく高学歴とはいえもっとストイックに鍛えられてきた東京中受組にはやはり負けるようで、東京コンプレックスを父母に当たるというクソをやらかしました。

兄の幼少期から家から少し離れた場所のスイミングの送り迎え、衣食住の世話、休日のレジャー、高額の大学の学費、大学入学中の月10万円の仕送りなど私たちの父母は十分なことをしてきたのです。折しも、そのときは、父親の難病がわかる直前、長引く体調不良の原因が分からずに家庭の先が全く見えなかった頃です。私はキレました。蕎麦屋で会った兄貴の婚約者にも、「生き別れの妹が1人いるくらいがいいでしょう。」と憮然と言いました。その婚約者と結婚して夫婦で困ったことが色々あったみたいだけど、まあ、まだ家族でいるからそれはいいとします。

 

高学歴の慢心と、嘘つき、他責…………。

 

改めて、絶縁期間があってよかったなぁと思ったので書きました。なんてったって、兄貴は仕事を続けいて、夫婦関係も乗り越えたそれになっていること、その2点が喜ばしいです。義姉さんに感謝ですから、義姉さん、退職金を全額を持って行ってくださいね。親兄弟妹から見放されてるというのは注意信号🚥ですのよ。

 

お読み下さりありがとうございます。