半径5メートルはババァゾーン

38歳一ババァの日常を皆さんにお届けします。

推しを家族にするのはツラいのよ。

おはようございます、ポスト田イット乃です。

 

巷で「息子を推しみたいに育てたい❤」という能天気な一言に接しましたので、思うままに一文書きます。

 

まず定義から

"推す"・"推し"とは、心の底から特定の人を賛同し最大限の援助を厭わない状態とその対象と本ブログでは定義します。賛同の度合いは個々人によって様々です。顔かたちや身体表現への賛同、作品に現れる社会的言動や思想への賛同が一般的なものですが、プライベートを気楽にSNS・ブログ・動画で発信できる昨今においては、個人的な趣味や家族関係・交友関係への賛同までも"推す"に含まれると私は思います。

 

「息子を推しみたいに育てたい❤」

推しは良い面をファンに見てもらおうと頑張ります、しかし、自分の子どもはそうではありません。身の回りの世話をして、機嫌を整え、子どもの適性を見極め、子どもの将来の希望を聞き、そこに金銭的、実務的な援助をしていく。それは延々と続く裏方作業であり、それを発言主は覚悟しているのであろうかと感じました。……言わずもがなですね。

 

「推しの子」と結婚した男の話を聞いてくれ

ここで昔の話をさせてください。20代で推しと出会ったうちの父の話です。昨年に18年間の難病の闘病を終えて、そこから父の人生とは何だったのかを私はたまに総括しています。父が祖父へのコンプレックスが強かったのは明らかで、振り回されたと見る向きもありますが、「推し活」だったと思えば納得できます。祖父は家財を投げ打って社会教育活動と環境保護活動をしていた人でした。祖母に遺した現金はありませんでした。地域で慈善事業のパフォーマンスをして人を引っ張っていく祖父を父は推していたのです。

父は祖父の娘と結婚して3人子どもをもうけました。年に最低2回、行く時は3回、船だと往復15万円から20万円(全行程車の場合は9時間の長距離運転で)大阪ー鹿児島間を往復していました。3人の子どもと犬連れです。鹿児島移住もせっつかれていましたが父は器用な人ではないので、転職できず休みごとに10日ほどを鹿児島で過ごすことで祖父という推しと推しがいる空間を楽しんでいたのだと思います。大変だけど、推し活だといえば安い方です。

 

推しの親族に1000万円を貸し付ける

推しが亡くなり推しの遺産は残りました。現金ではなく推しが描いた形で。しかし、祖父の描いたままの現状維持をするのは難しい。推しの遺産には住宅ローンを抱えた病気の親族もいたため、父は難病の身体ながら、1000万円の貸付を母と決めて行いました。何故そこまでと反対する子どももいましたが、推しの遺したもののためです。父と母にとっては当然のことだったと私は思います。お金は少し返ってきましたし、縁は深くなったみたいです。

 

父が推したものは何だったのか

私が10歳の時に祖父が亡くなり、特によく話したわけでもないので、私は祖父が地元の図書館に郷土史を遺したことぐらいしか知りません。なぜあの土地でそこまで知的でいなければならなかったのか、母に話を聞き断片的に祖父の情報を集めては人物像を作ってきましたがよくわかりません。父が心酔していたものを考える時間は楽しく、男尊女卑が強い土地で育まれた特殊な男尊女卑の実態はいつか明らかにしてみたいことの一つです。

 

人の心の形を見て自由に生きれるようにする

祖父の影響で私が心がけていることは、人の心の形を見て人が自由に生きれるようにすることです。これは、なかなか難しいのであまり大きな声ではいえませんが、毎日それは意識しています。先日は、母をじっくり見聞きして、自由にすればいいと伝えることができたので、まだまだこれからも人の自由のために自分ができることを増やしていきたいと思います。父の推しは、よく分からないながら私も尊重していきたいと思います。

 

お読みくださいましてありがとうございました。